昭和44年02月19日 夜の御理解
信心を頂いておると言う事が、有り難いとこう、ましみじみ思います。ほんとに信心を頂いておると言う事が、まなんと有り難い事じゃないかと。例えば親子が又は夫婦が、時折は話し合えるくらいな信心は、本気に頂きたいと思うですね。信心さして頂いておるから、やっぱおかげを頂くと、そのおかげを頂くと言う事が、有り難いというのではなくてです、信心を頂いておると言う事、その事が有り難い。
信心を頂いておると言う事が、この様な場合でもこの様な見方、考え方が出来ると言う事が有り難いじゃないか、例えて言うならば。ほんとにこれがもう、もし信心がなかったら、それこそもう腹の立つことでもあろうけれども、これを有り難く受けられると言う事でも、だけでも有り難い事じゃないかとね、それがしかも、親子が夫婦が、兄弟が話し合えるような雰囲気をね、私は、信心生活さして頂く者の過程に、頂いて行かなきゃいけんと思うんですね。
というほどしに、信心が身につかなければいけないと言う事ですね、信心はしておっても、夫婦親子兄弟の中に、例えば不和であったりしたんでは、そういう雰囲気なんか生まれてはまいりません。ところが家族の者が例えばあげて信心致しておりますとです、例えば時折ではあるけ、これはまぁ私と家内の場合なんかですけれども、もう今は中々もう一緒に、な時間に休むなんて事は、もうほとんどまずないですね。
ですからもうなんですかもう以前は、もう休ませて頂くのに、もう言うなら普通の寝物語とでも申しましょうか、とにかく、どんなに考えても、有り難い事じゃないかと。ほんなこて有り難いことですね、も毎晩毎晩言いよるから、言わんでもよかろうごたるけん、けれども、言わなければおられないほどに、有り難いという日々が続くんですね。どげん考えたっちゃ、お母さんそうばってん、有り難いことねって。それがどんなような場合でもそうですよ。
結構けだらけのおかげを頂いておると言うなくて、それとは反対の、そら困った難儀な事に遭ってもです、信心を頂いておればこういうふうな考え方ができる事が有り難いのだ。ですから、お母さんどう考えたっちゃ、ほんに有り難いこっじゃないかと。ほんなこて有り難い事ですよと、有り難い事ですよ、有り難い事じゃないかで、寝に着いていく、眠って行く。そら人間の幸せって言うのはね、そういう信心生活ができれるひとときだと思うですね。もう明日んこと思うたら眠られん。
今日誰からあげなこと言われたことが、腹が立って眠られんて言った様な人達が多い中にですね、ほんとに信心を頂いておると言う事が、段々と有り難い事じゃないかと、例えば時折でもね、親子が兄弟が、夫婦が話し合えるような雰囲気のできるような信心を、家庭に頂きたいと思う。今日はそういう意味合いで、私自身がおかげを頂いておる信心を頂いておることの有り難さと言う事ではなくてです、今日という一日はもうずうっとそんな事を考えた一日でしたけれど。
ほんとにここで信心の稽古をしておる、やっぱ値打ちはここにあるねっというものでした。幾人ものご信者さんたちに接しましてですね、そしてほんとに有り難いね、人が見ておるとか、見ていないとかと言う事じゃなくてですね、有り難いなぁほんとにここでしゅ、これは私じゃない、ここでご信者さんの何人かに触れてですたい、その、まぁ言うなら陰なら陰の面に触れてですたい、有り難いなぁほんとに陰と日向の心を持つなと教えられるが、中々信心頂いておっても、お広前では立派な事を言うておる。
表では立派な事をしておるけれども、も家に帰ったらもうおしまい。陰では信心のあるものがあんなことをしてと言った様な事をしておるような人が、言うなら多い中にです、今日は私は何人かの人の、裏の裏を覗いたような気がいたしましたんですけれど、そん時にですね、有り難い有り難いなぁ、これは人が信心を頂いておかげを受けておられる姿を見て、それを思いました。
それはあのおかげを受けておるというのは、金を儲けだしござるとかね、そのうと言う意味じゃないんです。ここではね、毎日おかげを受けてという人は沢山います。お願いしておったことが成就したっていうおかげは。ただそれは有り難いなと、今日のようには思いません。けれどもここで信心の稽古をしておる人達が、そう言う事が身についていきよる、そう言う事が分かっていきよると言う事が有りがたい。
私は先日ここで、ある会合が信心のない方達の会合がございました。三十何名の方達がここに集まって、まそれぞれのまぁ言うなら趣味の会のようなものでした。まぁ言うならば、それぞれにある意味での教養を持ったと、中にご信者さんがおられるもんですから、その方の願いで、この日はもう大変ここ忙しゅうございましたけれど、ま共励殿を提供しましてから、終日のお届が会合なされました。
それにまぁし、私はあのここでま必ず、あぁあした人が見えると、言う様な時には、もう私自身、部屋の隅々いっぺん通り見て回るんです。そしてあのういろいろそれはもう、置き物ひとつの上にでも、心を配らして頂くんです。お掃除もこんなふうにあんなふうにそいで、何故各部屋部屋に、もう使われるもんですから、各部屋部屋にま私あのう、あのうタバコを、必ず灰皿がおいてございますから、あのその横には、必ずタバコは後で置いておくんですよね。
それは成程あの置いておりますから、どうぞ召し上がって下さいという意味なんですよね。まぁある意味合いでは、まぁエチケットですよね。ちょっと例えば人が見えられる時にね、あの応接台の上にタバコが置いてあると言う様な事は、これは当たり前である。ですからそれをふんなら、頂いたからと言うて、それは決して罪にはならないのです。そうでしょうか、応接台の上においてあるタバコをね、それをガバガバ飲んでしもうても、だぁれも咎める者もなからなければ、それは罪になることじゃないです。
けれどもどうでしょうかね、後からそれをうちの人が見た時にですね、まぁあの人達は自分で持っちゃなかったじゃろうかと。どこもここもがばり減ってしもうとるという、いう時にですたい、どういうふうに感じるんですか。お菓子ならお菓子も、勿論出して下さいます。はもうもうそれこそ丁度そん時、久富さんがお茶の接待をされましたが、もうほんとにもうまぁ言うならば、教養を持った人達と言うなら、人が見よらんちもうあげなん事してからと言った様な。
それでもどうぞ上がって下さいと言うて、お茶菓子でも置いてあるし、タバコでも置いてあるのだから、だぁれもとがめる事もできないしですよ、それをまた罪にもならないのです。タバコ屋にあるタバコどんがばがば取ってくるなら、これはもう罪になります。けどもここに置いてあるのなら罪にはなりません。これはここと言うか応接台の前の上に置いてあるのは、お客さんの言わばサービス用においてあるのだから、良いのです。別にふんならここに会費でも収めてから。
その会費の中からしてあると言うならば、なおるですけれども、ただ言わばある意味合いにおいてのエチケットのために、こう置いてあるそのものを、例えば何と申しましょうかね、群集心理とでも言おうか、あの私はそういう時に、そう言う様な事がですね、自然界の中にもあると言う事です。この神様のお働き下さる地球、地球上にです、私どもがあのこちらへ生存さして頂いておる、そういういわゆる自然界。決して罪にはならない。とがめもされない。
けれどもどうせげさっか人達じゃろかとか、まどうしてこすい人じゃろうかとね。例えばですよ、一生懸命飲んどいてから二、三本もろうち来うかちから、自分ところのケースの中に入れていく人もおる。そ、だぁれも罪にはならんそげんと。わざわざ出しちゃるですどうぞちゅって。けれどふんならそれを見てから、見たものがどう感じるか。はぁ汚い人だと言う事にはなりゃせんでしょうかね。けれどもこれは人これは人間世界。人間世界でもですよ人間世界でも、例えばそうしてもこれは罪にはならないと言う事。
もっとこれを、毎月の言うならですね。ならもうみすみすそれは悪いような事にあるけれども、なら法には触れないという事があるんですね。頭のよい悪い人はですね。例えば六法全書なんかを研究しておいてから、その法の裏を行く様な事をしてです、人を泣かせても罪にならないという方法をちゃん覚えとるです。こう言う風に書類に書いておきゃもう罪にならん。こう言う風に言えば、もう罪にはならん。罪にならんからそれを、平気で悪いことをするという人が、世の中には沢山ありますよ。
悪いやつだなぁと、これはならもう人が見て思うでしょうもん。人間の世界にもそういう世界がありますように、神様の世界言うなら自然界、自然界の中にある。信心とはその人間の世界の上においてでも、なら今日私が感じましたように、信心を頂いとれば有り難いなぁと、今日私百人の人に接してですね、そう言う所を、そういうふうに美しゅう、誰も見ておらんけれども、していけれると言う事は、信心を頂いておる有り難さだなぁ、と言う様なものを。
私は今日百人以下の人たちの上に、で有り難いなぁという事を、もう今日はしみじみ感じた日でしたがですね、例えばそれを、ならまぁ火急の意ま御神意とでも申しましょうかね、あとでとでも申しましょうか、それが分かったときに、あぁあの人たちはほんにきれいな人たちだ、美しい人たちだと言われるに違いありませんよね。例えばそれがね、法に触れないからと言うて、それを平気でする様な事では、何事にも信心に慣れよと仰る信心になっておるんではないと思うところに。
私ども自然界、自然界にも、ただ今とでも申しましたようなですね、例えばこの大自然の中の、大自然の法則というものが、人間の世界に、警察法とか税法という法があるようにね、自然界には自然の法則というものがある。ですからその自然の法則の中にです、言わばああいう事をしても引っかからないと言う事があるんです。いくらも。それはもう例を言うたらたくさんありますでしょう。けれども人道上許されない事があるんです。神様のおきてには背かない。
言わばそんなことしたから罰かぶると言う事はないけれどもです、人間の世界から見ると、許されないような事がある。道徳上とか人道上とこう申しましょうね。けれども天地の法則の中にはです、それをとがめたりはしないけれどもです、ずっとさっき言った話じゃないけども、まどうした行儀の悪い人たちじゃろうかと、そのま人間が思うように、神様も悪いこっじゃない、罰を与えるわけにもいかん、法にかからんのだから、神様としても。御気付けを下さるわけにもいかん。
けれどもまぁ中々ずるいやつだなぁというようなことになってくる。その中の一つに、あのまじないというのがありますね。この世は神国、なん浮き呪いとかって言うね、ようなことがありますが、呪いなんかは、これは絶対法の裏をかくもんです。だからその呪いそのものが効かんことない効くですやっぱ。けれどもですね、けれどもですね呪いで病気を治そうとか、呪いで幸せになろうとかするその根性がです。
罪にはならんけれども、まぁほんとに根性の汚い男だな、女だなというふうに、天地の親神様が御覧になる事だけは間違いない。まあだそげなことだけのことじゃありません。そう言う事を、そう言う事をです、例えばその法則の裏をかくような事を、正面に看板に出しておる宗教すらありますね。はぁふぅふうちゅって吹いてから病気が治るとかですね。これは、言わば法則の、言うなら罰にはならん。罰なるほどそれでよくなる事もある。呪いによってですね。
例えばあの物貰いができるとね、あの味噌麹をこういがわに持っていってから、半分見せると、なんかまようなると言った様な事、私が子供ん時にしたことがありますがね、良くなるですよやはり。特に下流なんかには、もう実にものすごい、そのう言わば呪いがあるんですよ。通うてばもうお客さんがこないわけですね。自分の好きなお客さんは来ない。そうすっと、それを呼び寄せる呪いがあるんです。あるです。ふらふらとお客さんがやってくるんです。
あの招き猫なんかそういう呪いの一つです。完全に猫がこうやったとがおっでしょうが。あれはお呪いです。そりゃ効かん事ない効くですよやはり。ある意味合いにおいて。けれどもなら、正しい信心、いわゆる、天地の親神様の目から御覧になるとですね、ほんとに自分の心を改めて、そこに改めたという実態にかげが宿すようにです、こちらが大きくなれば、大きいかげが宿すような、当然の儀としてのおかげと言う様なおかげをですね、頂かなければいけないのに。
呪いをしてからおかげを頂こうというその根性が、あの神様の言うなら、御神徳は神様のご信用だと仰るが、そう言う事ではご信用がつかない事が分かります。自然界にはそういうことだけじゃなくて、まだたくさんあります。そこでそんなら、私どもが沢山あるその自然界の中に、神様の心に添い奉る生き方をさしてもらわんならんと願うのが信心ですけれども、なそういう信心を、訳が分かろうが分かるまいがです、はぁあの氏子は感心な氏子じゃと神様から目をつけられ、神様に御信用を受ける手は。
いわゆる教祖が仰る、実意丁寧神信心なのです。全ての事に実意を持って、実意丁寧神信心こそがです、例えばこれなら天地の法則に従うていく生き方であると同時に、人間社会から見てもです、これは信心のある人たちは、今日私が幾人かのご信者さんに感じたように、はぁ信心ちゃ有り難いなぁ、ああいうところああいうふうに、しかも人が見ていない、そういうことどげんしたっちゃよかごたる事ん中を信心でやってい
(途中切)